第59回 D-Wind Rally  『世界遺産 陰の功労者たち』
コース案内(作成記)

コースレイアウト図は、こちら(PDF版)
最初に・・・ ※昨年6月に富岡製糸場など4施設が、『富岡製糸場と絹産業遺産群』として世界遺産に登録された。
   世界遺産登録までの群馬県の取り組みは、こちら 
   世界遺産登録へのプロセスは、こちら
     このリンク先の3つ目のステップで、
       群馬県が最初に世界遺産登録として提案した内容
が見られる。

それに先立ち(混まない内に(笑))DWR56のゴールを富岡製糸場として、皆さんに紹介した。
また、DWR57では『切り捨てられた絹産業遺産群』として、コース作成時に偶然見つけた「東谷風穴(栃窪風穴)」を紹介した。

その後、世界遺産登録までの話を聴く機会があり、今回の世界遺産登録の裏事情も少し判り、また平成17年(2005年)まで冨岡製糸場を所有していた片倉工業が、年間約1億円もの維持費を掛けて建物を守って来た事を知り、今回のコースを作成する事にした。  

※下記の記載内容は、私が見聞きした内容で、私の理解不足、誤解で事実とは違っている場合もあります。 ご了承ください。


※群馬県とすれば、世界遺産登録され更に、県内唯一の国宝が誕生したため、非常に喜ばしい事であり、観光客の増加など県へのメリットもかなりあると思う。 しかし、講演を聞いたり色々調べると、『たまたま群馬県に日本初の官営製糸工場が出来た』感が強く、他の絹産業遺産群を含めて、本当に絹産業の近代化に群馬県が貢献したのかチョット不安になった(笑) 

日本初の官営製糸工場をどこに作るか、養蚕が盛んだった長野、群馬、埼玉の各地で実地調査が行われ、その結果群馬・富岡が選ばれたが、立地条件が良かっただけだと思う。

事実、上毛かるたに【県都前橋 生糸(いと)の市(まち)】と詠まれている様に、前橋藩の頃から絹産業は盛んで、冨岡製糸場より早く器械式座繰り機を導入したり、組合組織で絹の品質を高めて、欧州で『maebashi(マイバシ)』のブランドを確立していたが、県全体で見れば、当時の群馬での製糸業は、『座繰(ざぐり)』と呼ばれる人の手による糸繰り(繰糸)が主で、器械を使った製糸業は、長野・諏訪の方が盛んであった。 片倉工業も元々諏訪が発祥であり、日本最初の器械式糸繰り機の現物も諏訪・岡谷に保存されており、富岡製糸場にあるのはレプリカである。

また、富岡製糸場の建設に当たっては、渋沢栄一はじめ埼玉・深谷の人々の貢献が大きい。 今回の世界遺産登録を一番複雑な気持ちで見ているのはきっと埼玉・深谷の人々だと思う。 
それが証拠に、昨年6月から「渋沢栄一記念館」で開催されている企画展『深谷の三偉人と富岡製糸場』(富岡製糸場が後に来ている(笑))のサブタイトルは、『舞台は富岡、主役は深谷の三偉人』である。

その辺りの深谷の方々の無念(?)を晴らすため、深谷の関連施設にも立ち寄り、今回の世界遺産登録の最大の功労者である『片倉工業』に敬意を表し、ゴールを「片倉シルク記念館」とした。

尚、「片倉シルク記念館」の管理員さんとも少しお話をさせて頂き、記念館内にクイズを置かせて頂く事が出来た。
「片倉シルク記念館」は、毎週月、火曜日がお休みで、場合によっては臨時休館もありますが、休館日によるクイズが解けない場合も救済はしませんので予め了承ください。 
是非、開館日に参加して頂き、最大の功労者=片倉工業の歩みもご覧ください。

また、『片倉工業と富岡製糸場が歩んだ歴史』というHPで、現在では見学出来ない富岡製糸場の内部の写真も見る事が出来る。 富岡製糸場をまだ見ていない方は、こちらでお勉強を(笑)

スタート〜4CP

スタート、OD、2CP、4CPにトイレがあります。
 スタートは、『富岡製糸場』の鏑川の対岸。 対岸からは「工女寄宿舎」「ブリュナ館」が見え、「繰糸場」も「工女寄宿舎」越しに見える。 
但し、団地の中なので非常識な時間のスタートは絶対止めてください。 10図のゲートが9時にしか開門しないので、早くても7時半頃のスタートでお願いします。

 ODは、『旧小幡組製糸レンガ造り倉庫(現 甘楽町歴史民俗資料館)』
養蚕農家が生産した生糸を共同販売した組合製糸の「甘楽社小幡組」の保管倉庫で、大正15年築。 ここも、当初世界遺産への申請施設に含まれていたが、『切り捨てられた絹産業遺産群』となった。
 駐車場が狭く停められない可能性があるため、ODは近くの「道の駅・甘楽」の臨時駐車場に置いた。 そこからコマ図(5図)に従って歩いて、5分位です。

 『牛伏山展望台』に2CPを置いた。 吉井町(現在は高崎市)は城下町で、牛伏山の東峰に昔あった一郷山城にならってか、三層の天守風の展望台になっている。 DWR3以来14年ぶりに訪れた。 今回のテーマとは関係ない場所だが、しばし東は筑波山、北は赤城、榛名、妙義の上毛三山、西は浅間山の眺めを楽しんでください。
 
 3CPは、世界遺産の1つ『高山社跡』
 高山長五郎が「清温育」という養蚕飼育法を確立し、養蚕技術を教える高山社を設立した地。 その後、スペースが不足したため藤岡に本社を移し、ここは分教場となったため「跡」が付いている。 「清温育」は国内だけでなく、中国などへも広められた。
 2階(蚕室)は清温育のために工夫された構造で、当時のままの雰囲気が残っているが、1階(住居)は、数年前まで高齢のお婆さんが住んでいたため、玄関や窓の建具はアルミ製で、普通の民家の雰囲気しかなく、『なんで、これが世界遺産?』の意を強くする。
 こんな「高山社跡」が世界遺産に登録されたのは、国際記念物遺跡会議 ( ICOMOS )の審査で訪れたICOMOSの調査団の責任者が中国の人で、「清温育」を教えてもらった事があったというつながりだったとか・・・。 
 2階の床の強度が無いため、団体や個人でも多人数の見学では2階に上がれないので、空いている日に訪れたい。
   ※休館日は無し
    開館時間は、9時から16時

 『競進社模範蚕室』に4CP置いた。
競進社を創始した木村九蔵は、高山社を創始した高山長五郎の弟にあたる。 長五郎は「清温育」、九蔵は「一派温暖育」という蚕の飼育法を考案し、それぞれ「高山社」、「競進社」で養蚕技術を教え、近代日本の養蚕業の進展に貢献した。
 両者(両社)は、交流関係にあったと言われているが、ライバル関係にあり、仲は良くなかったとの話もある。資料などでは『お互い、切磋琢磨』と紹介されている・・・。
 「高山社」は、昭和2年に廃校になったが、「競進社」はその後も引き継がれ現在も高校として存続している。 また、『高山社跡』と違い、建具もアルミでは無く当時のままである(笑)
   ※休館日は、月曜日(祝日の場合は翌日)
    開館時間は、9時から16時半
5CP〜ゴール

5CP、6CP、8CP、ゴールにトイレがあります。
 世界遺産の1つ『田島弥平旧宅』に5CPを置いた。
利根川を吹き抜けてくる空っ風を利用し、通風を重視した蚕の飼育法「清涼育」を大成した田島弥平が、文久3年(1863)に建てた住居兼蚕室。 今も田島家当主の住まいとなっているため、「旧宅」が付いている。 
 当主の住まいのため外観のみの見学が可能で、勿論建具はアルミサッシで田舎の普通の民家(養蚕農家)にしか見えない・・・(^_^;;  
 初めて屋根に換気用の越屋根が付けられ、弥平が「清涼育」普及のために著した、「養蚕新論」「続養蚕新論」によって各地に広まり、近代養蚕農家の原型となった。
 「田島弥平」は「清涼育」で名をはせたと言うより、蚕種(卵)の販売を手掛け、微粒子病で養蚕に壊滅的な被害が出ていたヨーロッパ向けに蚕種を輸出し財を成した方が有名(?)。
 最初群馬県が提出した世界遺産登録の提案書には、ここは含まれていなかった。 遺産登録を確実なものにするため、国内の絹産業の近代化の貢献度だけでなく、国際的な絹産業のつながりを加えたと思われる。
また、田島弥平旧宅は利根川の右岸(=埼玉側)にある。 昔、この辺りは利根川の中州で群馬県境島村の一部であった。その後、利根川の流れが変わり飛び地となってしまったが、今も群馬県である。その為、「島村渡船」が住民の足として運行されている。
 田島弥平旧宅所蔵資料などは、『田島弥平旧宅案内所』で展示されているので、こちらにも立ち寄ってください。
  ※『田島弥平旧宅』『田島弥平旧宅案内所』とも、休館日は無し
   開館(見学)時間は、9時から16時

 6CPは、『中の家(渋沢栄一生地)』
周辺にある渋沢一族の家の中で、中ほどに位置しているため「中の家(なかんち)」と呼ばれる。
 現在の家屋は栄一が家を出てから建てられたもので、典型的な養蚕農家の形をしているが、渋沢家では「藍」の買付けを家業としていた。 栄一は、富岡製糸場設置主任としてその建設に大きく関わった。
  ※休館日は無し
    開館時間は、8時半から17時(入館は16時半まで)

 駐車場が無いため立ち寄らなかったが、コマ図33図に『尾高惇忠生家』がある。
尾高惇忠は渋沢栄一のいとこで、栄一が7歳の頃から論語などの学問を教えた。
尾高惇忠は、富岡製糸場の設立にも関わり、初代場長となり、工女達への一般教養などの教育を行った。

 『日本煉瓦製造株式会社・旧煉瓦製造施設』に7CPを置いた。
東京駅などの煉瓦で、深谷の煉瓦は有名だが、ここは渋沢栄一らによって設立され、明治21年から平成18年までの約120年間操業していた。現在はホフマン輪窯、旧事務所などが残っている。
 会社は清算され、現在は深谷市の所有になっているが、残念ながら一般には公開されていない。
 ここの煉瓦が富岡製糸場に使われた訳では無いが、富岡製糸場建設の際、日本には煉瓦の製造方法もない状況で、尾高惇忠から依頼を受けた韮塚直次郎が深谷周辺の瓦職人を集めて、冨岡製糸場の煉瓦造りを行った。
 その得た技術を活かすために、栄一が深谷に煉瓦造りを根付かせたのではないかと思っている(私の考えです)。

 『深谷ビッグタートル』に8CPを置いた。
深谷市の総合体育館で、今回のテーマとは全く関係ない場所。 何かあるかと思って立ち寄ったが・・・(^_^;;

 ゴールは、『片倉シルク記念館』
日本最大の製糸会社だった片倉工業の、平成6年まで操業していた熊谷工場の跡地の一角にある記念館。 熊谷工場の倉庫などを利用している。
 《売らない、貸さない、壊さない》の3原則を貫き、年間約1億円の維持費を掛けて富岡製糸場を守って来たのが片倉工業であり、今回の世界遺産登録において、一番の陰の功労者である。
 冨岡製糸場で内部を見学できるのは繰糸工場だけで、そこにある機械は最近のものであるが、片倉シルク記念館は倉庫を転用しているため、一部であるがその内部も見る事も出来、製糸工場の工程も知ることができる。
  ※休館日は、毎週月、火曜日。臨時休館日もあり
   開館時間は、10時から17時(入館は16時半まで)   入館料は無料